俳優の西田敏行さんの訃報が10月17日、報じられました。同日朝、自宅で病死されたとのことです。76歳。慎んで哀悼の意を表します。
長いキャリアで多彩な役を演じた方でした。わたしにとっての代表作は、テレビドラマ「池中玄太80キロ」です。最初に放送された1980年当時、わたしは大学2年生でした。特にだれかのファンというわけではありませんでしたが、このドラマはよく見ていました。
作中の設定では、西田さん演じる池中玄太は通信社のカメラマン。場面の転換の際、黒っぽいビルの壁面にある社名のネオンのうち、下3文字の「通信社」だけが映るカットがありました。続くのは職場のシーン。池中玄太と長門裕之さん演じる写真部長の怒鳴り合いは定番でした。
大学4年生の秋、就職活動が始まりました。新聞記者以外の仕事は考えておらず、当初は全国紙1社に絞って受けるつもりでした。友人が「第一志望は通信社」と話すのを聞いて、それなら度胸試しを兼ねて自分も、と考えました。最初の面接の日、慣れないスーツ姿で足を運んだ先に、テレビで見慣れたあの黒っぽいビルと「通信社」のネオンの文字がありました。「ああ、池中玄太はここだったんだ」。そのまま40年以上、この通信社で働いています。
西田さんが歌った番組の主題歌「もしもピアノが弾けたなら」は、わたしもよくカラオケで歌いました。初任地の青森で、いっしょに飲みに行った他社の記者から「おい、通信社のテーマ曲!」とリクエストを受けることもありました。
現実の通信社の本社は20年余り前に別のビルに移転。番組に映っていたビルは老朽化と一帯の再開発で来年2月に閉館し、取り壊されます。そんなことも重ね合わせると、西田さんの訃報に残念さに加えてさみしさを感じます。
西田さんのわたしの最初の記憶は、1977年のNHK大河ドラマ「花神」の山県有朋役です。主人公は長州出身で明治維新後の陸軍の基礎を作った大村益次郎。山県は同郷の後輩で、大村が暗殺された後、陸軍育成の事業を引き継ぎました。後に首相も務めています。
半世紀近く前のことで記憶はあいまいなのですが、たぶん、江戸幕府による長州征伐のことだったのでしょう。西田さん演じる山県が「ふはっ、ふははははっ、このワシが逆賊か」と不敵に笑うシーンが印象に残っています。
よく知られているように、西田さんは福島県郡山市の出身。同じ福島県の旧会津藩は幕末、戊辰戦争で新政府軍と激しい戦闘を繰り広げた末に敗北しました。新政府の中核は長州と薩摩。会津と長州、薩摩は敵対した歴史があります。大河ドラマでは西田さんは以下のように長州、薩摩、会津それぞの主要人物の役を演じています。
1977年 「花神」長州・山県有朋
1990年 「翔ぶが如く」薩摩・西郷隆盛
2013年 「八重の桜」会津・西郷頼母(会津藩家老)
2018年 「西郷どん」薩摩・西郷菊次郎(隆盛の息子)
「跳ぶが如く」で西郷隆盛を演じた際のことを語った西田さんのインタビュー記事がNHKアーカイブスのサイトにあります。
実は故郷、福島(会津)の人の多くは、完膚なきまでに会津を倒した新政府軍に対して、未だにある種の怨念に近いような気持ちを根底に抱いているんですよ。でも、僕自身はどういう訳か西郷さんだけは許せるというか、好ましいような気持ちで演じることができました。何でかな? 不思議ですが、それがおそらく西郷隆盛の持つ人間力なんでしょうね。
「西郷隆盛の持つ人間力」との言葉は、西田さんの俳優としての度量の大きさをも示しているのだと感じます。もっと活躍してほしかったと思います。
西田さんの訃報は新聞各紙もデジタルで速報しました。見出しを以下に書きとめておきます。代表作は「釣りバカ日誌」で一致するようです。
西田さんが演じたどの役を印象深く覚えているかは人それぞれながら、西田さんをしのびつつ、自身の過ぎた時間を振り返っている方は少なくないと思います。だから著名人の訃報は社会で共有されていいニュースです。