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戦争の理不尽を語り継ぐことの今日的な意義~企画展「東京大空襲80年ー新たな記録を探し続けてー」

 第2次世界大戦末期の1945年3月10日未明、東京の下町地区は米軍B29爆撃機の大編隊の空襲を受け、焼夷弾によって一晩で住民10万人以上が犠牲になったとされます。その「東京大空襲」から80年。東京都墨田区の「すみだ郷土文化資料館」で企画展「東京大空襲80年-新たな記録を探し続けて-」が開かれています。先日、見に行きました。
 同館は開館以来25年、東京の空襲や戦争を調査研究と展示の柱の一つとして活動を続けています。今回展示しているのは、新たな記録や資料を基にした最近の調査・研究の成果です。
 一つは空襲時の両国地区と思われる写真です。両国の旧国技館は現在の国技館からJR両国駅を超えて南の場所にありました。戦前から大相撲の力士の写真を撮影していたことで知られる工藤写真館の初代、工藤哲郎氏が残していた写真の中に、隅田川にかかる両国橋の両岸地域の空襲被害のものが確認できたとのことです。
 空襲の様子をとらえた写真はこれまで、新聞社などが軍の許可を得て撮影したもの、警視庁の専属カメラマンが撮影したものは知られていました。他の都市では、地元の写真館の主が撮影していた事例は少なくありませんが、東京では珍しい事例で、貴重な発見とのことです。
 ほかにも、関東大震災を教訓に、現在の小学校に当たる国民学校に避難用の地下室を作っていたことを裏付ける設計図面が見つかりました。空襲体験者の証言の中には、空襲時には最寄りの学校に避難することになっていた、との内容や、学校の防空壕で何百人もの人が亡くなった、との内容のものもありました。そうした証言を裏付ける資料です。その数や収容力では、地域の住民の一部しか収容できなかった上に、設備の不十分さなどから、避難した住民が犠牲になった可能性も明らかになったとのことです。
 初めての展示ではなく、以前の企画展でも目にしたことがある資料ですが、改めて息をのむ思いがしたのは「いのちの被災地図」と題した資料です。氏名が判明している犠牲者の空襲時の住所地と、遺体が収容された場所を地図上に落とし、線で結んだものです。空襲と大火災の中を、犠牲者がどのように逃げ、力尽きたかを可視化しています。ひと口に10万人以上の犠牲と言っても、「10万人以上の死」という一つの出来事ではありません。ひとり一人の「生」が個人では抗いようもなく奪われる戦争の理不尽をあらためて感じました。さらに研究が進んで、火災の延焼状況などが分かれば、多くの方が亡くなっている「犠牲集中点」がどうしてできたのかなどが解明できる可能性があるようです。
 企画展は5月25日まで。入館料100円です。

※すみだ郷土文化資料館

https://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/siryou/kyoudobunka/index.html

【写真:企画展のパンフレット】

 

 この日は両国から、すみだ郷土資料館を経て浅草まで、隅田川界隈を久しぶりに歩いてみました。
 都営地下鉄大江戸線の両国駅のすぐ北、横網町公園にあえる東京都慰霊堂は、東京大空襲と関東大震災の犠牲者約16万3千人の遺骨を納めています。堂内で焼香し、手を合わせました。関東大震災の様子を描いた絵画や、東京大空襲の写真も展示されています。いつ来ても、張り詰めた空気を感じます。

 米軍は東京の空襲に爆弾ではなく、火災を発生させる焼夷弾を使用しました。木造住宅が密集する日本の都市を焼き払い、戦争遂行力を奪うためです。炎に追われた多くの住民が隅田川で絶命しました。特に言問橋は、墨田区と台東区の両岸からの避難住民が押し寄せ、犠牲者も多かったとされます。両岸の公園は戦後の一時期まで、犠牲者の仮埋葬地でした。

 隅田川に沿って歩くと、慰霊碑や慰霊の地蔵像などがいくつもあります。一つひとつ、手を合わせました。

 戦争は軍の戦闘部隊同士の戦闘に限りません。ひとたび戦争になれば非戦闘員である住民に多くの犠牲が出るのは、ウクライナやパレスチナでも変わりがありません。それは80年前に、わたしたちの父母や祖父母が経験したことでした。都市部への無差別爆撃は、さかのぼれば日中戦争では日本軍が行っていました。現代の日本の社会で、加害も被害も含めて、あの戦争を語り継ぐことに今日的な意義があることを、あらためて感じました。

※このブログの「東京大空襲」カテゴリーと「戦争史跡」カテゴリーの記事一覧です

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