ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「遂に宣戦布告」79年前の見出し/真珠湾攻撃「死後の選別」に迫った神戸新聞

 太平洋戦争開戦の日の12月8日前後には、新聞各紙にも関連の記事が目につきました。8月の敗戦の日だけでなく、戦争が始まった日のことも語り継ぐことが、戦争体験を風化させず継承していくことにつながるのだと思います。目にした記事の中で、特に印象に残った毎日新聞の記事と神戸新聞の記事を紹介します。いずれもネット上のサイトで読みました。

▼「太平洋戦争開戦当日の大阪毎日新聞夕刊、北九州で見つかる」毎日新聞:12月7日
  https://mainichi.jp/articles/20201207/k00/00m/040/161000c

mainichi.jp

 太平洋戦争開戦を伝える1941年12月8日の毎日新聞夕刊紙面が、北九州市八幡西区で見つかった、との記事です。大阪毎日新聞社西部支社が発行。毎日新聞社に現存している当日の夕刊は3版とのことですが、見つかったのはそれよりも締め切りが遅く、新しいニュースを掲載した6版。特別紙面で通常の倍の4ページ。宣戦布告の昭和天皇の詔書が掲載され、布哇(ハワイ)、比島(フィリピン)、新嘉坡(シンガポール)、マレー半島と、日本軍の作戦地域を見出しで列挙しています。
 わたしは「帝国遂に対米英宣戦布告」の主見出しに「遂に」のひと言が入っていることに目を引かれました。米国と英国は開戦と同時に突然敵国になったわけではなく、その以前から日本の“国益”と衝突する存在でした。日本は我慢を重ねてきたが、とうとうその我慢も限界に達して、やむなく開戦に至ったと言いたかったのであろう、そのニュアンスがとてもよく表現されているように思います。
 このブログの一つ前の記事で、ナチスの大立者の1人、ヘルマン・ゲーリングが残した言葉を紹介しました。国民は戦争を望まないものだが、その国民を戦争に向かわせるのは簡単だ、攻撃されつつあるとあおり、平和主義者のことは愛国心が欠けていると批判すればよい―。1941年12月8日当時の日本は、まさにそうであったのだろうと、この見出しを見ながらあらためて思います。
 わたしは北九州市の生まれで、父の実家も北九州市内でした。1960年生まれのわたしにとって第2次世界大戦は、父母が子どもの頃の、祖父母が壮年の当時の出来事です。父の実家は古くから毎日新聞を購読していました。もしかしたら、祖父母や父が目にしたかもしれない紙面です。そう考えると、日本が戦争をする国であったのは、そんなに昔のことではないと感じます。

▼「真珠湾攻撃で戦死『死後の選別』 太平洋戦争開戦79年」神戸新聞NEXT:12月8日
 https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202012/0013922347.shtml

www.kobe-np.co.jp

 太平洋戦争は日本陸軍のマレー半島侵攻、海軍の真珠湾攻撃によって始まりました。真珠湾攻撃では空母6隻から発進した攻撃隊の搭乗員のうち55人が戦死認定を受けています。戦意高揚のため、55人は死後、階級が上がりましたが、49人は2階級特進だったのに6人は1階級の昇進にとどまっていました。記事はその事実を明らかにし、「死後の選別」の理由に迫っています。
 戦史研究の専門家の間でも必ずしも知られていなかった事実であり、これだけでも大変な労作だと思うのですが、神戸新聞はネット専用コンテンツで取材の経緯も詳しく明かしています。息もつかず一気に読みました。

「真珠湾攻撃で戦死、『2階級特進』から漏れた6人の真実 史実追求の先にあったもの」神戸新聞NEXT:12月7日
 https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202012/0013921580.shtml

www.kobe-np.co.jp

 筆者は小川晶さん。明らかになった事実の重みもさることながら、新聞のジャーナリズムとはどんなものか、何ができるのかをも伝えていると感じました。長文のリポートですが、一読をお奨めします。ここでは結びの部分を引用します。 

国家のさじ加減一つで、国民の命が駒のように扱われる時代があったこと。20歳の一人の青年が、遠い遠い太平洋の片隅で、家族の誰もが知らないままに命を落としたこと。その死を、家族が「誉れ」と思い込もうとしたこと。新聞が、そんな時代に同調し、あおりさえしていたこと。その全てを含んだうえで、記者として何ができるのだろうか。
 たった1枚だけ残った写真の中で、正面を見据える岩槻國夫さん。その真っすぐな視線が、射抜くように私に突き刺さる。