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安倍元首相の国葬と自衛隊~軍事組織が思い入れを持つことへの不安と危惧

 9月27日に行われた安倍晋三元首相の国葬で、気にかかっていることがあります。自衛隊の役割です。
 国葬当日、遺骨を載せた車は会場の日本武道館に向かう途中で、市谷の防衛省に立ち寄りました。庁舎前の広場を通ると、集まった約800人の自衛隊員らは敬礼して見送ったと産経新聞は報じています。国葬の会場では陸上自衛隊が弔意を表す大砲の空砲「弔砲」を19発撃ち、陸自中央音楽隊が「国の鎮め」を演奏。儀仗隊なども含めて、自衛官千数百人が参加したと伝えられています。見過ごせないのは、7月に行われた安倍家の葬儀の際にも、自衛隊の儀仗隊が派遣されていたことです。現職の首相ならともかく、一人の国会議員の私的な葬儀に対して、公私のけじめはないのでしょうか。当時の防衛相が安倍元首相の実弟だったとなれば、なおさらです。
 安倍元首相の生前、自衛隊への肩入れが目立ちました。自衛隊の存在が憲法に書かれていないから憲法学者が自衛隊は違憲だと言う、との自説を強調して、憲法改正が必要だとする理由にも持ち出していました。実際には安倍政権当時、現行の条文のままで、憲法解釈の変更によって集団的自衛権の行使の解禁にまで進みました。自衛隊が憲法に明記されていなくても、何の不都合もないことを、安倍元首相が自ら証明して見せました。憲法学者がうんぬんとの言説は、憲法改正のダシに自衛隊を使おうとしたようなものです。
 防衛省・自衛隊にとっては悪い首相ではなかったはずです。防衛省・自衛隊も国家の官僚機構の一部であり、そうである限りは自らの権益を守り、拡大することは本能みたいなものだからです。安倍元首相は頼りがいがあったのではないでしょうか。産経新聞は9月28日付の紙面に「安保法制で功績、自衛隊が儀仗/防衛省前 隊員ら800人見送り」の見出しの記事を掲載。防衛省で隊員らが礼を尽くして遺骨を見送ったことについて「こうした対応が取られたのも安倍氏が生前、安保強化に心を砕き、その成果を防衛省・自衛隊が認識しているからに他ならない」と書いています。当事者の発言の紹介、引用ではありませんので、いわば防衛省・自衛隊の意思を産経新聞が代弁しているのですが、安倍元首相への儀礼はやはり特別扱いだったのだな、と感じます。
 一方で、防衛省・自衛隊は軍事組織、実力組織です。そして自衛隊の本来任務には治安出動もあります。銃口を向ける先は外敵だけではない。自国民に向けることもありうる、ということです。
 安倍元首相の業績で忘れるわけにいかないのは、日本社会に深い亀裂と分断を残したことです。象徴的なのは、街頭演説で「アベ帰れ」のヤジに対して「わたしたちは、こんな人たちに負けるわけにいかないんです」と言い放った一件です。一国の首相であるなら、たとえ自分を批判する人であっても、国民である限り守り抜かなければならない対象です。しかし「わたしたち」と「こんな人たち」と敵味方に分けて「負けるわけにいかない」と、対立をあおりました。
 一部とはいえ自国民を敵視していた政治家が国葬で見送られ、その場に、場合によっては治安出動で自国民に銃口を向けるかもしれない軍事組織が、その政治家への強い思い入れとともに参加している-。その構図を思い描くと、わたしは不安と危惧を覚えます。

 11月3日付の朝日新聞朝刊4面(総合面)に、安倍元首相の国葬を巡る3人の識者の座談会の記事が掲載されていました。「戦後民主主義 崩した国葬/自衛隊の役割/骨抜きされた法制局」の見出しです。この中で日本近代史が専門の加藤陽子・東京大教授が、国葬と自衛隊に触れています。

 加藤 私が気になったのは、国葬における自衛隊の役割です。明治以降、国民が支持する国家の「物語」を生み出したのは軍事力で、その統帥権は天皇が持っていた。だからこそ、国家に偉勲があった者に対して、天皇の特別なおぼしめしによって行われた戦前の国葬では、軍が前面に出ていました。それが今回、変に矮小化され、国葬はもとより安倍さんの私的な葬儀にまで陸上自衛隊の儀仗隊を出した。遺骨を載せた車は、国葬会場に向かう途中に防衛省を回った。首相が文官として自衛隊の最高指揮権を持つとは言っても、戦前と現在とでは国家の成り立ちがまったく違うのだから、それでよかったのかという問題は残ります。「伝統」「慣例」といった言葉でうやむやにされるべきではないと思います。

 この加藤さんの言葉を受けて、杉田敦・法政大教授(政治理論)と長谷部恭男・早稲田大教授(憲法)も以下のように指摘しています。 

 杉田 国家に寄与したとされる人の葬儀に儀仗隊を出すということは、国家の本質的な部分は軍事である、というイデオロギーを広めることにつながるのでは?

 長谷部 これは憲法学者の樋口陽一さんが常々おっしゃっていることですが、日本国憲法は9条によって軍の正統性を否定し、それによって自由な公共空間を戦後の世界に生み出した。国葬で、安倍さんの偉大さを自衛隊に象徴させようとしたのだとすると、それは戦後の民主主義、立憲主義と真っ向から対立します。逆に言うと、安倍さんが戦後民主主義や戦後立憲主義と対立する政治家であったことを国葬での自衛隊の役割が物語っている。また、家族葬にまで儀仗隊を出したことは、防衛相が実弟だったことと相まって、典型的な縁故主義を物語ることになるでしょう。それで本当によかったのか。

 なるほど、と思いました。

▽「(考論 長谷部×杉田+加藤陽子)戦後民主主義、崩した国葬 自衛隊の役割/骨抜きされた法制局」=2022年11月3日
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15463693.html
 ※朝日新聞デジタルでは有料コンテンツです

 国葬当日の報道では、防衛省・自衛隊に焦点を当てたものは、前述の産経新聞の記事が目についただけで、ほかには弔砲などに簡単に触れただけのメディアが大半でした。自衛隊の参加の詳細を、批判的な視点で検証するような報道は目にしませんでした。
 今、岸田文雄政権の下で、軍事費の大幅な拡大が、なし崩しとも言えるような勢いで進みつつあります。日本の敗戦で終わった戦争の教訓を、たった77年で忘れてしまうのか、との思いがします。他国とは異なり、不戦と戦力不保持の憲法を持つ日本で、自衛隊という軍事組織はどんな意味を持つのか。マスメディアが伝えなければいけないテーマだろうと思います。