ニュース・ワーカー2

組織ジャーナリズムに身を置き40年余

「敵兵でも人間」(吉川英治) 異国の地で生を閉じたB29搭乗員の若者たちを悼む

 第2次世界大戦末期の1945年3月10日未明、東京の下町地区は米軍B29爆撃機の大編隊の空襲を受け、焼夷弾による大火災の中、一夜で10万人以上が犠牲になりました。この「東京大空襲」を皮切りに、B29による各地の都市空襲が続き、8月6日には広島、9日には長崎に原爆が投下されました。空襲は、昭和天皇の「玉音放送」で敗戦が国民に告げられた8月15日当日の未明まで続きました。その最後は秋田市でした。日本の主要都市は焦土と化しました。
 このブログでは東京大空襲を中心に、日本本土への空襲について書きつづってきました。住民被害が中心ですが、日本軍の高射砲や迎撃機による撃墜など、米軍側の損害も決して小さくはありませんでした。今回は戦死した米兵の搭乗員のことです。

 ウイキペディア「日本本土空襲」に、米国戦略爆撃調査団による統計として、日本本土を爆撃したB29について、以下の数字が紹介されています。

 延べ出撃機数33401機/作戦中の総損失機数485機/延べ出撃機数に対する損失率1.45%/作戦中の破損機数2707機/投下爆弾147576トン。そして、搭乗員の戦死は3041名です。

 パラシュートで脱出し、日本軍の捕虜になった後に処刑された事例や、捕虜として収容されていた東京・代々木の陸軍刑務所が空襲を受け、そこで死亡した事例も記録に残っているようです。戦死した米軍搭乗員らの慰霊のために、墜落地点に建てられた慰霊碑が各地にあります。ネット上で「B29 慰霊碑」で検索すると、いくつもヒットします。戦後の日米の友好関係や、平和への願いが背景にあったのだと思います。
 米軍の日本本土空襲は、前例のない規模での都市住民に対する無差別攻撃であることは間違いがなく、その当否は勝者ではなく、歴史の審判にゆだねられるべきことだろうと思います。ただ一方で、戦死したB29の搭乗員たちも、戦争がなければ米国社会で普通の生活を送っていたはずの若者たちでした。

【B29:写真出典・ウイキペディア「B29」、パブリックドメイン】

 東京では当時の西多摩郡吉野村、現在の青梅市に1機が墜落しました。搭乗員11人のうち戦後、米国に生還できたのは4人だけでした。墜落場所にある慰霊碑を先日、訪ねてみました。
 東京・新宿からJR中央線・青梅線直通の青梅特快電車に乗って1時間ほどで青梅駅に着きます。各駅停車に乗り換えて10分余り、五つ目の駅が、戦国時代の古戦場であることに地名の由来を持つ「軍畑(いくさばた)」です。駅のホームから南に小高い山が見えます。その中腹に1945年4月2日未明、B29が墜落し炎上しました。

【軍畑駅ホームから。中央左手の中腹斜面にB29が墜落しました】

 青梅市郷土博物館でいただいた「青梅市文化財ニュース 第423号」(2023年1月15日発行)は以下のように解説しています。

アメリカ軍重爆撃機「B29」墜落地(柚木街の愛宕山中腹)
 鎌倉街道の柚木町3丁目と2丁目の境にあたる山道入口の足元に、「B29→」と書かれた小さな案内看板があります。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月2日未明、B29が墜落炎上した現場近くの慰霊地を示しています。B29は多摩地方の軍需工場を大編隊で爆撃したのですが日本軍戦闘機の攻撃を受け、脱出した6人を除く5人が死亡しました。当時の村人は祖国を焦土化し同胞を殺戮するアメリカ兵は憎く、この遺体は穴でも掘って放り込んでおけばいいと思っていました。ところが、柚木に移住していた作家吉川英治の「敵兵でも人間。亡くなればていねいに葬ってやらなくてはいけない。」との言葉で、遺体は丁寧に収容され即清寺へ埋葬されました。その後、平成12(2000)年に地元のN氏が墜落現場近くに慰霊碑を建立し、平成18(2006)年には日米合同慰霊祭が行われました。当日は100人以上の地元民、横田基地副司令官をはじめとするアメリカ軍兵士等が参集し、慰霊と日米友好と平和が願われました。

 軍畑駅から慰霊碑まで、徒歩で20~30分ほどです。さして高い山ではないのですが、それなりの険しい斜面に、慰霊碑はひっそりと立っていました。近くにはハイキングコースもあり、軍畑駅で下車するハイカーもいましたが、ここは訪れる人もめったにいないようです。

 両手を合わせ、目を閉じて、墜落当時のことを想像してみました。被弾した機体はコントロールが効かず、どんどん高度を落としていたのかもしれません。パイロットは、何とか機体の姿勢を立て直そうと、必死だったはず。搭乗員たちは見知らぬ敵地の上空で、どんなにか恐ろしかったことか。
 慰霊碑のそばには「平和の鐘」と書かれた小さな鐘もありました。鎮魂と、平和への思いを込めて、そっと鳴らしてみました。チリン、チリンと澄んだ音色が、人気のない山中に響きました。

 墜落した機体は「Filthy FayⅡ」。直訳すると「汚れた妖精」でしょうか。B29以前に同名の機体があって、2代目ということなのでしょう。墜落直前、4基のエンジンのうち一つが脱落しました。戦後長らく、近くの多摩川に放置されていましたが、1979(昭和54)年に地元の方たちが引き上げ保管。その後、青梅市郷土博物館に寄贈されました。玄関を入ってすぐのホールに展示されています。実物を見学しました。B29の本土空襲の貴重な直接資料です。

 展示資料には、所属基地で撮影したと思われる「Filthy FayⅡ」を背に並んだ搭乗員たちの写真がありました。みな若く、恐らくは20代でしょう。英語表記の氏名も読み取れます。第2次大戦では米国も戦時体制に移行し、多くの若者が軍に動員されました。もともと自動車が発達した社会で車の運転に慣れていたので、航空機の操縦の上達も早かったようです。そんなところにも日米の国力の差があったとの指摘を、どなたかの著書で目にした記憶があります。

 B29のエンジンと並んで、日本陸軍の爆撃機「飛龍」のエンジンも展示されています。説明文によると、終戦4日前の1945年8月11日、やはり柚木の山中に墜落し、乗員12人全員が死亡しました。何らかの機体トラブルが原因だったようです。もう少し生き延びていれば、戦後日本の復興の力になったはずの人たちでした。

 「青梅市文化財ニュース」の記事中に登場する作家の吉川英治は「宮本武蔵」や「新・平家物語」などの代表作で知られます。1944年3月に東京都心から吉野村に移住し、1953年8月まで9年5カ月を過ごしました。戦前から邸宅を購入するなど準備していたようで、単なる戦時疎開ではなかったようです。邸宅と書斎は現在、青梅市が運営する吉川英治記念館として公開されています。
 「鬼畜米英」といったスローガンが横行していた戦時社会で、著名な作家とはいえ一人の民間人が「敵兵でも人間」と言って戦死者を丁寧に葬るよう求めるようなことは、よほどの信念に加えて、胆力がなければできることではなかったはずです。このエピソードについて「武士道」によるものとする解釈も目にします。そういう側面もあるのかもしれませんが、ほかにも吉川英治には個人的な強い思いがあったのではないか、とわたしは考えています。

【死亡した搭乗員が葬られた即清寺】
 吉川英治にはかわいがっていた養子の娘、つまり養女がいました。女子挺身隊員として動員され、都心に残っていました。吉野村にB29が墜落する約3週間前、3月10日の東京大空襲で行方不明になっていました。連絡を受けた吉川英治は連日、吉野村から都心に出かけ、行方を探しました。手掛かりは何も見つけられないまま、ある時、大空襲当夜に、墨田区にあった墨田電話局の交換手の女性たちが最後まで職場を離れず殉職したと聞いて、養女のことをあきらめて吉野村に戻りました。
 戦後、そのときのことを吉川英治自身が電電公社総裁との対談で語った時の様子が、「吉川英治記念館」のブログにありました(今はこのブログは閉鎖されているようです)。吉川英治の言葉を引用します。

 それをききましてぼくは、ああ、そんなにまで純真なおとめたちがあったのに、ぼくの養女一人がみえなくなったからっていって、そう途方にくれたように幾日も探し歩いてもしようがない、たくさん、日本のいい娘たちが、そうして亡くなったんだから……と思って、ぼくもそこですっかりあきらめて、ついにその晩雪のなかを奥多摩へ帰ったことがありました。その話を、ぼくはいつまでも忘れかねるんですね。

 B29が吉野村に墜落したのはその直後だったのではないでしょうか。戦争で前途有為の若い人たちがたくさん死んでいくことの虚しさ、無情を感じていたことが、例え敵国の軍人であっても、異国の地で無念の死を遂げた若者に対して「敵兵でも人間。亡くなればていねいに葬ってやらなくてはいけない」との気持ちにさせ、周囲にも強く語ったのではないか。そんな風に想像しています。

【吉川英治記念館として保存されている書斎】
 吉川英治の養女のことは、このブログの5年前の3月10日の記事で触れました。墨田電話局の跡地には慰霊碑が立っていて、吉川英治の自筆の追悼の碑文もあります。そこには「人々よ 日常機縁の間に ふとここに佇む折もあらば また何とぞ 一顧の歴史と 寸時の祈念とを惜しませ給うな」と刻まれています。
以下の記事に詳しく紹介しています。どうぞ、お読みください。

news-worker.hatenablog.com

 軍畑駅からスタートし、B29搭乗員の慰霊碑、吉川英治記念館、死亡した搭乗員を埋葬した即清寺、青梅市立郷土博物館と歩いて、たっぷり半日の行程でした。戦争の勝敗は相対的なことで、本質は敵であれ味方であれ、個人の「生」をすり潰すように奪っていくことです。個人は抗いようがありません。だから、戦争は最大の人権侵害です。そのことを改めて考えた道のりでした。

■付記
 旧吉野村のB29墜落をめぐっては、ユーチューブに「中央大学FLP松野良一ゼミ」の制作著作の動画「『61年目の祈り ~青梅に墜落したB29~』第28回 多摩探検隊」があります。敗戦から61年の2006年8月に合わせて制作されたようです。墜落当夜についての吉川英治の息子さんの証言、慰霊碑建立の経緯や、日米合同の慰霊祭の模様なども収録されています。非常にクオリティの高い動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=EdO9hBLK6Uc

www.youtube.com

焦土を視察する天皇に土下座でわびた民衆~堀田善衛「優情」と伊丹万作「だまされる罪」

 第2次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月10日未明、東京の下町地区は米軍B29爆撃機の大編隊の空襲を受け、焦土と化しました。一夜で10万人以上が犠牲になったとされる東京大空襲から、ことしは79年になります。昨年、このブログで、昭和天皇が空襲から8日後の3月18日、現地を訪れ被害状況を視察していたこと、そのことを記した碑が、東京都江東区の富岡八幡宮にあることを紹介しました。
 ※参考過去記事 

news-worker.hatenablog.com

 記事を公開後、ツイッター(現X)を通じてある方から、この昭和天皇の現地視察を作家の堀田善衛(ほった・よしえ、1919~1998)がたまたま目撃していたこと、その時の様子を「方丈記私記」に書き残していることをご教示いただきました。そこに描かれているのは、天皇が到着すると、付近にいた人たちが集まって土下座し、涙を流しながら、自分たちの努力が足りなかったのでむざむざと焼いてしまったと、わびの言葉を口々につぶやく情景でした。

【写真】天皇の現地視察を伝える朝日新聞(1945年3月19日付)
 「方丈記私記」は筑摩書房の「ちくま文庫」に収録されていて、入手可能です。購入して読んでみました。
 空襲当時、富岡八幡宮の近くには堀田善衛の知り合いの女性が住んでいました。あの空襲を経て生きている見込みはまずないと思いながら、行って別れを告げたいとの気持ちから、早朝に現地へ向かいました。着いてみれば、富岡八幡宮のあたりは本当に何もありませんでした。ところどころで、疎開していて助かったか、奇跡的に空襲下を生き延びたか、焼け跡を掘り、焼け残った家財を探しているのだろうとおぼしき人々がいました。
 いったんその場を離れ、東の木場方面へ歩いていき、また富岡八幡宮のあたりに戻ってきて、思いもかけなかった光景を目にします。焼け跡が整理され、憲兵や警官、役人などが集まっていました。午前9時過ぎと思われる頃、ほとんどが外国製である乗用車の列が西の永代橋、つまり都心の方向から現れました。
 以下、本文の一部を引用します。

 小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて来た。大きな勲章までつけていた。私が憲兵の眼をよけていた、なにかの工場跡であったらしいコンクリート塀のあたりから、二百メートルはなかったであろうと思われる距離。
 私は瞬間に、身体が凍るような思いがした。
 (中略)
 私が歩きながら、あるいは電車を乗りついで、うなだれて考えつづけていたことは、天皇自体についてではなかった。そうではなくて、廃墟でのこの奇怪な儀式のようなものが開始されたときに、あたりで焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集まって来て、それが集まってみると実は可成りな人数になり、それぞれがもっていた鳶口や円匙を前に置いて、しめった灰のなかに土下座をした、その人たちの口から出たことばについて、であった。
 (中略)
 私は方々に穴のあいたコンクリート塀の陰にしゃがんでいたのだが、これらの人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ。
 私は本当におどろいてしまった。私はピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とをちらちらと眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものなのだろう、と考えていたのである。こいつらのぜーんぶを海のなかへ放り込む方法はないものか、と考えていた。ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる! そんな法外なことがどこにある! こういう奇怪な逆転がどうしていったい起こりうるのか!

 そうした怒りの感情の一方で、天皇に生命の全てをささげて生きる、当時の言葉で表現すれば「大義に生きる」ことを半ば受け入れる気持ちもあり、「この二つのものが私自身のなかで戦っていた。せめぎ合っていたのである。」とも吐露しています。
 1945年3月当時、堀田善衛は26歳。「方丈記私記」はそれから25年後の1970年に発表されています。東京大空襲の自身の経験を、平安末期の戦乱や政変、天変地異などを鴨長明が書き記した「方丈記」に重ね合わせて、歴史や人間の営みの普遍性と深く向き合った作品です。昭和天皇の視察はその中のごく一部なのですが、大本営発表を元にした戦意高揚の記事しかなかった当時の報道からは知り得ない情景です。
 家を焼かれ、家族を殺されながらも、「努力が足りませんでした」と涙とともに権力者にわびる精神性を、堀田善衛は「優情」という言葉で表現しています。権力者に対して、あまりにも優しい情感ということなのでしょうか。

 そうしてさらに、もう一つ私が考え込んでしまったことは、焼け跡の灰に土下座をして、その瓦礫に額をつけ、涙を流し、歔唏しながら、申し訳ありません、申し訳ありませんとくりかえしていた人々の、それは真底からのことばであり、その臣民としての優情もまた、まことにおどろくべきものであり、それを否定したりすることもまた許されないであろうという、そういう考えもまた、私自身において実在していたのである。
 もしそうだとしたら、そういう無限にやさしい、その優情というものは、いったいどこから出て来たものであるか。またその優情は、情として認められるものであるとしても、政治として果たしてそれをどう考えるべきものか。政治は現実に、眼前の事実として、のうのうとこの人民の優情に乗っかっていたではないか。政治がもしそれに乗ることが出来ない、許さるべくもないものであるとしたら、たとえ如何なる理由つけがなされても、のこのこと視察に出て来るなどということは、現実に不可能なことでなければならないであろう。
 支配者の側のこととしても、人民の側のこととしても、私には理解不可能であった。なぜ、どうして、というのが、二十五年前の焼け跡を歩いての、私の身体にいっぱいになっていた疑問であった。それは疑問である。つまりは、考えてみた上での、疑問であり、もしその疑問をトータルに提出しないとすれば、しかし、一切は、実はきわめて明瞭であって、理解も理解不可能もへったくれも、実はないのである。天皇陛下とその臣民であって、掌をさすが如くに明快であり、その明快さの上に居直ってだけいるとするなら、そこに何らの疑問の余地もありはしない。

 「優情」をめぐる堀田善衛の考察を目にして思い起こすのは、戦前に映画監督、脚本家として活躍した伊丹万作が敗戦翌年の1946年8月に発表した「戦争責任者の問題」と題した文章です。俳優、映画監督の故伊丹十三さんの父親です。
 「戦争責任者の問題」のことは、このブログでも何度も触れてきました。最初のブログ記事は2013年5月。安倍晋三首相(当時)が、悲願の改憲のハードルを下げるために、要件を定めた憲法96条の改変を模索していた時期です。
 ※参考過去記事

news-worker.hatenablog.com

 この過去記事で詳しく紹介していますので、関心を持たれた方は、お読みいただければと思うのですが、「戦争責任者の問題」は、内容から察するに、映画界で戦争遂行に協力した責任者を指弾し、追放することを主張していた団体に名前を使われた伊丹万作が、自分の考え方を明らかにして、当該の団体に自分の名前を削除するよう申し入れたことを公にした文章です。
 この中で伊丹万作は、敗戦後に多くの人が「今度の戦争でだまされていた」と言っていることを挙げ、「多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである」と指摘します。「一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う」というわけです。そして「だまされていた」と釈明することで戦争責任を逃れることができるのかと、たたみかけ、さらには「『だまされるということ自体がすでに一つの悪である』ことを主張したいのである」と強調しています。以下は、この文章の真骨頂だと感じた部分です。

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 さらには、日本国民の将来への「暗澹たる不安」をつづっています。

 「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

 堀田善衛が「優情」と表現した権力側の非を問おうとしない精神性は、伊丹万作が批判した、「だまされていた」と釈明することで免罪されるとの思考と表裏一体、ないしは通底しているようにも思えます。
 敗戦後、天皇は日本国憲法によって国民の統合の象徴と位置付けられ、政治からは距離を置くことになりました。では今、日本社会に権力者に対する優情はないのでしょうか。民主主義の社会では、権力は選挙によって合法性と正当性が備わります。だから、社会の一人一人が主権者として当事者意識を持ち、権力者が何をやろうとしているかをいつも見ていることが重要です。仮に、政治への関心を失い、「だれが政治をやっても同じ」と選挙にも行かないようなことになれば、それもまた形を変えた権力への「優情」ではないのかと感じます。戦争を始めるのは、いつの世でも、どこの世界でも権力者です。後で「だまされていた」と悔やむことのないように、今、自分自身に「優情」がないか、あるのならどうやって克服していくか、自身の内面と向き合うことが必要ではないか。そんなことを考えています。

 ※ウイキペディア「堀田善衛」
 ※ウイキペディア「伊丹万作」
 ※「戦争責任者の問題」は著作権フリーの青空文庫で読めます

www.aozora.gr.jp

 ※堀田善衛「方丈記私記」をご教示いただいたハンドルネームrakuseijinさんのブログ記事です。あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。

rakuseijin.exblog.jp

「中立」の壁を越えるジャーナリズムへ~MBS「記者たち~多数になびく社会の中で~」(視聴を推奨します)

 大阪市に本社を置く民放準キー局のMBS(毎日放送)は毎月1回、日曜深夜の0時50分から自局制作のドキュメンタリー番組「映像‘24」を放送しています。1980年4月に「映像‘80」で始まって以来、40年以上も続いており、質の高さで知られます。3月3日に放送された「記者たち~多数になびく社会の中で~」を、見逃し配信サイトのTVerで見ました。以下は、MBSの公式サイトにある番組内容の紹介の一部です。

 新聞もニュースも、なくなる日が近づいているのだろうか。過酷な現実は見たくない。エンタメに心地よく浸っていたい。日本の新聞の発行部数は、20年前の半分近くに激減した。
 社会の成熟度は、腐敗する権力を適切にチェックできるかどうか、よりマシな方向へ修正できるかにかかっている。だが、主権者である国民の判断を左右するニュースは弱っている。
 PV数など過剰な数字主義に走って、ニュースを「コンテンツ」扱いする。取材に時間をかけた調査報道より、炎上狙いのお手軽なコンテンツがネット言論で大量拡散される。記者たちを軽蔑し、叩く声がSNSに溢れる。言葉が軽く飛び交う社会でマイノリティーたちには差別が襲いかかる。
 こうしたなか、思いを託される記者たちがいる。隠される情報を掘り起こし、理不尽なことに真正面から闘って記者本来の仕事から撤退しない人たちだ。

 ※ https://www.mbs.jp/eizou/backno/24030300.shtml

【写真】MBSの公式サイト
 登場する記者は3人。琉球新報東京支社で防衛省を担当する明真南斗さん、毎日新聞記者を辞め、初任地だった広島に戻り被爆者の取材を続ける小山美砂さん、川崎の在日コリアンへの攻撃を始めとしたヘイトクライムを止めるために、時に街頭でレイシストから罵倒を浴びせられながらも、身を体して取材し書き続ける神奈川新聞川崎総局の編集委員、石橋学さんです。
 それぞれがどのような記者なのかは、実際に番組を視聴していただくのがいちばんだと思います。ここでは、わたしなりの感想を少し書きとめておきます。
 3人に共通するのは、「中立」の壁を超えたジャーナリズムだと感じました。マスメディアの報道現場でしばしば耳にするのは「中立公正」という言葉です。「中立公平」と呼ばれることもあります。どの立場、どの勢力にも与さず、客観的な立場で報道する、というのが本来の意味だと理解しています。
 例えば、あるニュースを深く理解するための一助として、その問題の専門家に取材して、新聞で言えば20行ほどの記事にまとめることがしばしばあります。「識者談話」と呼びます。一人だけではなく、異なった見解を持つ複数の専門家に取材し記事にすることで、多様な意見、ものの見方を紹介することができます。
 そうした「中立公正」は必ずしも悪いことではないと思います。しかし、自らの判断を抑えて、単に相対する意見をそれぞれ紹介すれば事足りる姿勢となるとどうでしょうか。特に人権に絡む問題では、人権侵害を止めることができるような変革が社会に必要で、そのために事実を社会に知らせるのがジャーナリズムの役割です。人権を侵害している側と、侵害を受けている側を対等に扱う、それが「中立」であり「公正」「公平」である、というようなスタンスで、その役割を果たせるでしょうか。「中立」は壁になってしまいます。その壁を乗り越えられるか、問われるのは報道する側の「人権」への感覚です。そのジャーナリズムの根源的な問題に、この番組は焦点を当てていると感じました。

 番組の冒頭は、琉球新報の明さんが入社2年目の2015年夏、米軍普天間飛行場の移設先として日米両政府が合意している辺野古で、反対運動を取材しているシーンです。番組の中で、明さんが口にしたいくつかの言葉が、印象に残ります。
 東京で過ごした大学時代、友人に「基地がないと沖縄はやっていけないんでしょ」と言われ、何も答えられなかったことが悔しくて、新聞記者になったこと、東京で取材するようになって気付いたのは、大手メディアの取材が政府や与党にばかり向かっていること、野党でもだれでも、等しく取材する沖縄のメディアと随分違うと感じると―。
 思い起こすのは、20年近く前、新聞労連の専従役員として初めて沖縄を訪ね、辺野古を見学した時に聞いた、地元紙の労組の方の言葉です。
 「東京から閣僚や与党議員が何度も視察に来ています。記者もたくさん付いてきます。でも皆さん、向こう側(閣僚や与党議員の側)からしか見ない。わたしたちと一緒に、こちら側から見れば、いろいろなことが見えてくるはずなのに」
 わたしが、沖縄の基地の過剰集中を自分自身にかかわる問題として意識した原点を、明さんの言葉で改めて自覚し、再確認できた気がしました。

 沖縄の基地の過剰集中の問題も、小山さんが取材する被爆者の認定の問題も、石橋さんが取材するヘイトクライムの規制の問題も、当事者は強大な国家権力や公権力と正面から対峙することを迫られています。力関係は全く対等ではありません。そして、問題の本質が広く知られることがなければ、この非対称は揺らぎません。権力にとってこれほど楽なことはありません。番組のサブタイトル「多数になびく社会の中で」の「多数になびく社会」とは、そういうことなのだろうと感じます。
 ではジャーナリズムにとって、「中立」に代わる言葉は何か。私見ですが「独立」ではないかと考えています。だれかのために報道するのではない。自分が「おかしい」と思ったら、それが取材の原動力になる。当事者が非対称の関係にあるのなら、立場の弱い側の声をより丁寧に聞き、社会に届ける。だけれども立場はあくまで「独立」。記者個々人のそうしたモチベーションを、マスメディアが組織として大切にすることも必要です。

 「記者たち」のディレクターは「教育と愛国」なども手掛けてきたことで知られる斉加尚代さんです。記者の仕事に関心がある若い人たち、記者の仕事に就いてまもない若い人たち、何よりも記者の仕事に「壁」を感じ、疑問を抱き始めた人たちに、ぜひ見てほしいと思います。
 TVerで来週いっぱいは視聴可能なようです。
 https://tver.jp/episodes/ep8zb6rg50

「沖縄の訴えを足蹴にするような暴挙」(琉球新報社説)~代執行訴訟、最高裁が上告不受理で終結

 米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設をめぐり、軟弱地盤の改良工事の設計変更を承認するよう、日本政府が沖縄県の玉城デニー知事に求めた代執行訴訟で、最高裁第1小法廷は、玉城知事側の上告を受理しない決定をしたと報じられています。2月29日付とのことで、3月1日に一斉に報じられました。福岡高裁那覇支部は昨年12月20日の判決で、設計変更の承認を知事に命じました。その後も知事は承認せず、斉藤鉄夫国土交通相が承認を代執行。ことし1月10日、既に工事は始まっています。
 高裁那覇支部判決は、結論としては日本政府の主張を全面的に認めつつ、「国と県が相互理解に向けて対話を重ね、抜本的解決が図られることが強く望まれている」と付言していました。このブログの以前の記事でも書きましたが、それこそが結論だったはずだと強く感じます。

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 最高裁は機械的な対応しか取れない機関だと言ってしまえばそれまでですが、極めて残念です。ことの本質は、沖縄という一地域だけの問題にとどまらず、同様に全国の自治体がいつ当事者になるか分からないことです。政府機関があたかも私人のように装うことで、自治体との紛争が別の政府機関に持ち込まれ、裁定されるようなことに本当に問題はないのか。素人目にも疑問なのに、政府の主張を丸ごと容認してしまう司法のありようには、主権者の一人として深刻な危機感を抱きます。

 最高裁の上告不受理に対して玉城知事は「憲法が託した『法の番人』としての正当な判決を最後まで期待していただけに、今回、司法が何らの具体的判断も示さずに門前払いをしたことは、極めて残念」とのコメントを発表しました。琉球新報のサイトに、記者団との質疑も含めた動画がアップされています。
※琉球新報「【速報・動画あり】デニー知事『門前払い、極めて残念』『新基地反対、つらぬく』 敗訴受けコメント 辺野古代執行訴訟、最高裁が不受理」
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-2860693.html

【写真】コメントを発表する玉城知事(出典:琉球新報動画)
 琉球新報は3月2日付の社説で「責務を放棄した」「およそ歴史の審判に耐え得るものではない」などと厳しい言葉を連ねて、最高裁を批判しています。最高裁の裁判官たちに届いているでしょうか。
 ※琉球新報:社説「辺野古上告不受理 最高裁は責務を放棄した」=2024年3月2日
 https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-2860756.html

 「法の番人」はどこへ行ったのか。民意と地方自治に基づく沖縄の訴えを足蹴(あしげ)にするような暴挙である。司法のあからさまな政府への追随を許すわけにはいかない。
(中略)
 玉城デニー知事は「司法が何らの具体的判断も示さずに門前払いをしたことは、極めて残念」と述べた。沖縄の声に向き合い、公正に審理するべき司法としての責務を放棄したに等しい。上告に際し、県民が求めたのは実質審理であった。最高裁の上告不受理はおよそ歴史の審判に耐え得るものではない。
(中略)
 代執行訴訟の上告審で、県は沖縄の基地集中を放置する構造的差別と、日本全国に及ぶ地方自治の危機を訴えるはずであった。最高裁はこの機会を奪ったのだ。日本の司法はここまで後退した。

 沖縄タイムスは3月3日付で「代執行訴訟 県敗訴確定 国への権限集中を疑え」との見出しの社説を掲載し、「県敗訴が確定したことになるが、最高裁の判断に意外性はない」「地方分権改革の際、法定受託事務に対する国の関与を強化する制度を設け、日米安保体制の運用に支障が出ないような制度設計にしたからだ」と指摘しています。そして、以下のような懸念を示しています。

 懸念されるのは「台湾有事」を想定した沖縄の要塞(ようさい)化と、政府への権限集中の動きが、同時並行で進んでいることだ。その影響を直接受けるのは沖縄である。
 俳人の渡辺白泉は、日中戦争真っただ中の1939年にこんな銃後の句を詠んだ。
「戦争が廊下の奥に立ってゐた」
 太平洋戦争が始まったのはその2年後のことだ。
 国が進める離島から九州などへの避難計画には、この俳句ほどの現実味はない。
 白泉の一句を沖縄戦場化への警鐘と受け止めたい。

 今回の最高裁の決定は事前に予想できたこともあってか、東京発行の新聞各紙(朝日、毎日、読売、日経、産経、東京の6紙)はさほど大きくは扱っていません。3月2日付の朝刊で、1面に掲載したのは東京新聞のみ。朝日新聞は社会面。毎日、読売、産経の3紙は第2社会面、日経は総合面でした。関連の社説も2日付、3日付では見当たりません。

やはり「ザル法」温存したいのか~政倫審、岸田首相の弁明から読み取れること

 自民党パーティー券裏金事件をめぐり、衆議院の政治倫理審査会(政倫審)が2月29日と3月1日の2日間、開かれました。初日は岸田文雄首相(自民党総裁)と二階派の武田良太事務総長の2人が出席。2日目は安倍派から西村康稔・元事務総長、塩谷立・元座長ら幹部4人が出席しました。「首相として初めて」との異例さから注目されましたが、弁明の内容に新味はありませんでした。安倍派の幹部については、派閥の政治資金収支報告書への記載にどう関与したのかが焦点でしたが、4人とも否定しました。
 事前に予想できた展開であり、真相解明の観点からは進展はありませんでした。ただし、何の意味も見いだせないかと言えば、そうでもないように感じます。特に岸田首相を巡っては、東京発行の新聞各紙が消極的な評価の見出しとともに報じる中で、読売新聞の報じ方には「なるほど」と思いました。
 岸田首相の政倫審での発言については、東京発行の新聞各紙(朝日、毎日、読売、日経、産経、東京の6紙)は3月1日付朝刊で、1面をはじめ複数のページに関連記事を掲載して大きく扱っています。そのうち、事実関係を中心にした「本記」と呼ぶメインの記事の見出し2本分を以下にまとめました。

 岸田首相の弁明を巡っては、読売新聞だけは「岸田首相が前向きに語ったこと」を主見出しにしています。記事のリードでは「(岸田首相は)国会議員本人への罰則を強化する同法の改正を今国会中に実現する意向を表明した」とあり、再発防止に向けた法改正を国会で言明した、との位置付けを、ニュースバリューととらえていることがうかがえます。「おや」と思ったのは、しばらく読み進めてのことです。以下のようなくだりがありました。

 首相は「監督などで過失があった場合などに、その責任を問うという(公明党の)基本的な考え方は参考になる」とも語った。政治家本人の責任を問う場合、会計責任者への監督責任に過失があったかなど、条件付きとなることを示唆したものだ。

 やっぱりそんなことを考えているのか、と思いました。この事件では、派閥の収支報告書の虚偽記載で訴追されたのは、政治資金規正法に処罰対象者として明示されている事務方の会計責任者のみです。政治家を訴追するためには会計責任者との共謀を証明しなければなりません。捜査の上でも高いハードルになっているのは事実であり、罰則強化の方向性としては、共謀の有無を問わず、政治家本人の責任も問える「連座制」の導入が必要だと指摘されています。
 公明党の再発防止策の考え方は、政治家とその資金を扱う団体の会計責任者との関係について、政治家の監督に過失があった場合などは政治家の責任を問う、との内容であり、岸田首相がその考え方を取り入れ条件付きの法改正とする意向であることが明らかになったことを、読売新聞の記事は伝えています。
 政治資金規正法は、資金の流れを透明化するという法律本来の趣旨からも、政治家本人の責任を問うという観点からも抜け道だらけで、改正も重ねても「ザル法」と呼ばれるままです。政治家本人への連座制を導入するにしても、仮に「条件付き」となったらどうでしょうか。その条件のハードルが高ければ、今までと同じです。
 例えば、会計責任者の監督に過失があった場合は政治家本人の責任を問う、となっても、会計責任者が「政治家本人の指示に背いて独断で虚偽記載をした」と言い張ればどうでしょうか。政治家の過失を立証するのにも、現在の共謀の証明と同じように高いハードルがある、ということになりかねません。事件の教訓を生かし再発防止を期すと言うのであれば、一切の条件なしに、会計責任者の有罪確定という客観事実だけで連座制が適用できる仕組みでなければ意味はありません。
 「ザル法」が改正しても「ザル法」のままなのは、法改正の主体が当の国会議員たちであるからだ、ということがたびたび指摘されています。「政治とカネ」にルーズな政治家、中でも自民党の国会議員が、自らに厳しい対応を取るわけがない、ということです。今回の裏金事件で、どれだけ世論の批判を浴びようと、どれだけ内閣支持率、自民党の支持率が落ちようとも、そのことに変わりはないことを、政倫審で岸田首相自らが示しました。そのことが分かっただけでも、政倫審開催の意味はあったのかもしれません。読売新聞の報じ方に接して、そんなことを考えています。

政倫審開催までの曲折と検察の捜査

 自民党のパーティー券裏金事件を巡って、衆議院の政治倫理審査会(政倫審)が2月29日、開催されました。中継のテレビカメラが入った完全公開で、この日は岸田文雄首相と二階派の武田良太事務総長の二人が出席しました。安倍派の事務総長経験者ら同派の衆院議員5人4人が3月1日に出席することも決まりました。
 政倫審での岸田首相らの発言内容についてはひとまず置くとして、開催が決まるまでには紆余曲折がありました。“裏金議員”の間に、自らの政治責任を踏まえ、公の場で進んで説明しようとの意識は希薄であることが見て取れました。開き直りとも思えるそうした姿勢は、やはり検察が派閥幹部議員らの刑事責任を不問としたことと無関係ではないと感じます。検察は本当に捜査を尽くしたのかどうかは、問われ続けていい論点です。

 新聞各紙の報道によると、政倫審をめぐっては野党側が完全公開を求めたのに対し、安倍派の幹部議員の一部が非公開での開催にこだわり抵抗。調整は行き詰まっていました。業を煮やした岸田首相が28日、完全公開のもとで自ら出席する異例の措置を表明。安倍派の議員も抵抗できず受け入れることになったようです。
 岸田首相が28日午前、記者団に囲まれ、口にしたという言葉が報じられています。
 「今の状況では国民の政治に対する信頼を損ね、政治不信も深刻になる」
 「志のある議員に説明責任を果たしてもらうよう、あらゆる場で、これからも努力してもらうことを期待している」
 ※朝日新聞29日付朝刊2面「時時刻刻」
 朝日新聞の記事は、この発言について「岸田派の閣僚経験者」の解説も紹介しています。
 「首相は怒っていたな。『志ある議員』という言葉が全てを象徴している。出なければ『お前たちには志がない』ということになる」
 安倍派の5人が完全公開の政倫審に出席することにはなりましたが、同時に岸田首相の自民党内での求心力のなさも露呈してしまったようです。

 日本の新聞各紙の政治報道の特色の一つは、舞台裏を精緻に描くことにたけていることです。29日付朝刊では、朝日新聞「時時刻刻」、毎日新聞「クローズアップ」、読売新聞「スキャナー」など、総合面に掲載する大型のサイド記事の枠で各紙とも、この政倫審開催決定の内幕を詳述しました。読み応えがありました。主な見出しは以下の通りです。

 見出しだけからでも、岸田首相の求心力、指導力の欠如はよく分かると思います。少し角度を変えて見れば、「派閥ぐるみ」の裏金づくりを続けていた安倍派幹部らに、実情を公の場で明らかにしようとの意思は乏しいことを示しているように感じます。
 この問題で自民党と所属議員への疑問は多々あります。裏金を得ていた他の議員は、政倫審出席に手を挙げないのか、このままやり過ごすつもりなのか。そもそも、自民党の調査自体が不十分です。裏金は使途によっては個人所得となり、脱税の疑いも生じる可能性があります。しかし岸田首相は国会で、政治活動以外に使用したと調査に回答した議員はいなかった、と開き直るだけです。
 「政治とカネ」のことは、本来は政治家が自ら襟を正すのが筋です。再発防止のためには、政治資金収支報告書の記載に会計責任者だけでなく、議員本人の責任も問える連座制の導入などが必要と指摘されており、世論調査でも圧倒的な支持を得ています。しかし、現状で実現を期待するのは困難なように感じます。公の場での説明ですら、実施までにこれだけ混乱したのに、規制を強める法改正を自ら進んでやれるでしょうか。

 なぜ、こんなことになっているのか。要因の一つは、検察の捜査と刑事処分の甘さだとわたしは考えています。
 このブログの以前の記事でも書きましたが、検察の判断で疑問に思うのは①派閥、特に5年間で13億5千万円余りもの不記載があった安倍派について、事務総長経験者ら派閥幹部の政治家の刑事責任を不問としたこと②裏金を得た個々の政治家について、収支報告書への不記載の額がおおむね3千万円で線引きされ、そのラインに満たなければ会計責任者の訴追もなかったこと―の2点です。これらの判断について、検察は説明も十分に行っていません。
 加えて、裏金が使途によっては脱税の疑いが生じる点は、まさに検察が捜査を尽くさなければならなかったポイントの一つです。検察の捜査の過程で税法上の疑いが見つかれば、その時点で国税当局と連携し合同捜査に切り替えることは、別に異例でも困難でもありません。
 自民党の議員たちにしてみれば、一時的に批判は浴びても、刑事責任を問われることもなく、離党すらせず、国会で説明しなくても済むのなら、「今のままがいい」と考えるはずです。法改正は到底期待できません。
 「政治とカネ」を巡っては、政治家が自ら襟を正すのが本来のありようです。それができているか、マスメディアの報道が政界の動きを追うのは当然です。ただし、今回の問題の全体像を俯瞰して見れば、検察が“裏金議員”たちの開き直りに口実を与えてしまったのも同然の構図が見えます。検察の公権力の行使のありようを問い続ける必要があると思います。それができるのはマスメディアの組織ジャーナリズムですし、果たさなければならない役割の一つです。

※参考過去記事

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【追記】2024年3月1日0時40分
 岸田首相の政倫審での弁明は、新味はなく真相解明にはほど遠い、との評価になるようです。
 ※共同通信「首相、政倫審の弁明『新味なし』 野党『予算委と同じ』と指摘」=2024年2月29日

https://nordot.app/1135873946828669945

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私家版ガイド:二・二六事件の関係地

 1936年のクーデター未遂事件「二・二六事件」からことしは88年。別の記事に書きましたが、一部の若い軍人が部下を私兵化して起こした独善的な反乱であるこの事件には、今日的な教訓も少なくないと思います。
 非常勤講師を務めた大学の授業では履修生たちに、社会との関わりについて考えを深めるために、ニュースの現場に足を運んでみることを奨めました。二・二六事件をめぐって、わたし自身が訪ねたことがある現場や関係地を、東京都内を中心にまとめました。若い世代の方に、参考にしてもらえればうれしいです。

▽高橋是清蔵相の殺害現場
 高橋是清は大正から昭和初期にかけて首相、蔵相を務めた金融界の重鎮であり、重臣の一人。自宅で就寝中に反乱軍に襲われ、殺害されました。82歳でした。
 東京都港区赤坂の自宅跡地は現在、「高橋是清翁記念公園」となっています。港区のホームページによると、事件後の1938年(昭和13年)、記念事業会が東京市に寄与して1941年に記念公園として開園しました。戦後、1975年に港区が管理するようになりました。
 公園内には日本庭園の趣が残り、交通量の多い青山通りに面していながら、騒音も気になりません。公園内には、英字紙と思われる書類を手にした高橋是清の座像があります。

※「高橋是清翁記念公園」
 https://www.city.minato.tokyo.jp/shisetsu/koen/akasaka/04.html

 当時建っていた邸宅は、東京都小金井市の都立小金井公園内にある「江戸東京たてもの園」に移築、復元されています。わたしが訪ねたのは10年前。是清が絶命したとされる母屋2階の寝室も見学できました。

 ※「江戸東京たてもの園」
 https://www.tatemonoen.jp/

 ※参考過去記事 

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▽反乱軍が拠点とした「山王ホテル」跡
 反乱軍は首相官邸を襲撃し、永田町から三宅坂の一帯を占拠しました。拠点としたのは「山王ホテル」でした。当時、日本を代表する高級ホテルの一つだったとされます。戦後、米軍に接収され、1983年10月に閉鎖されました。跡地はしばらく更地でしたが、2000年1月に「山王パークタワー」が竣工し、現在に至っています。
 ※以上、出典:ウイキペディア「山王ホテル」

【写真】首相官邸(右のガラス張りの建物)と道を挟んで向き合う山王パークタワー(左手前)。首相官邸の奥に並んで見えるのは国会の議員会館
 反乱軍が山王ホテルを拠点としていたことは知識として知っていましたが、その場所をはっきり認識したのは、実は最近のことです。何度も付近を歩きながら気付かずにいました。何となく「赤坂」だと思っていた地域ですが、住所表示は「永田町」だということも改めて確認しました。
 道を隔ててすぐ東側に首相官邸。その北側には国会の議員会館が連なります。当時も今も、日本の政治の中心です。

※参考過去記事

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▽刑死した将校、犠牲者の慰霊像
 事件は4日目に鎮圧され、クーデターは未遂に終わりました。投降した反乱軍の将校や、黒幕とされた民間人らは軍法会議で死刑判決を受け、東京・代々木の陸軍刑務所で銃殺刑が執行されました。その陸軍刑務所の跡地の一角に、慰霊像が建っています。
 台座の上に、右手を高々と掲げる観音像。手前の木柱には「二・二六事件慰霊像」と書かれています。台座には、像を建立した経緯を記した碑文がはめ込まれています。それによると、慰霊の対象は刑死した20人、自決した2人だけでなく、事件で殺害された犠牲者も含むとしています。建立は30回忌にあたる1965(昭和40)年2月。建立し、管理しているのは一般社団法人「仏心会」で、刑死した将校の遺族の集まりです。

 慰霊像があるのは、JR渋谷駅から北西へ徒歩10分ほど。渋谷税務署などが入る渋谷地方合同庁舎に隣接する一角です。向かいはNHK放送センター。かつては渋谷駅の近くまで、広大な陸軍の用地が広がっていたようですが、現在はビル街です。

 ※参考過去記事 

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▽斎藤実の遺品
 岩手県奥州市水沢区(旧水沢市)は最近では米大リーグ、大谷翔平さんの出身地として知られますが、二・二六事件で暗殺された内大臣、元首相、元海軍大将の斎藤実は水沢の武家の生まれです。
 奥州市役所の近くにある斎藤実記念館には、血に染まった衣類や、銃弾でヒビが入った鏡台など、事件の生々しい資料が多数、展示されています。夫人が事件後も手元に残していました。事件の直接資料がこれだけまとまって保存されている施設は、ほかには見当たらないのではないかと思います。
※斎藤実記念館
 https://www.city.oshu.iwate.jp/makoto/index.html

※参考過去記事

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 水沢にはほかに、台湾総督府民政長官、南満洲鉄道(満鉄)初代総裁、内務大臣、東京市長などを務め、都市計画などの構想の大きさから「大風呂敷」のあだ名があった後藤新平の記念館、江戸時代後期の蘭学者、高野長英の記念館もあります。

二・二六事件から88年、教訓の今日的な意味~自衛官の靖国神社集団参拝に危惧

 88年前の1936年(昭和11年)2月26日、陸軍の青年将校らによる「二・二六事件」が起きました。クーデターを企図して約1500人の下士官、兵を率いて決起。高橋是清蔵相、斎藤実内大臣、陸軍の渡辺錠太郎・教育総監らを殺害し、東京・永田町や霞ヶ関などの一帯を占拠しました。しかし4日後29日には鎮圧され、クーデターは未遂に終わりました。陸軍内の「皇道派」と「統制派」の派閥抗争=主導権争いが背景にあり、青年将校らは皇道派の影響を強く受けていたとされます。両派はともに社会変革を掲げていましたが、方向性が異なっていました。事件を経て陸軍は統制派が支配を確立。日本は1941年12月の太平洋戦争開戦へと進み、戦争遂行を最優先とする社会になっていきました。
 二・二六事件については、教訓を暴力で世の中を変えようとすることの愚かしさととらえ、このブログでも取り上げてきました。しかし今年はその2月26日を、少し違った意味で心の中にざわつきを覚えながら迎えました。自衛隊の統制をめぐる気になるニュースのためです。
 ことしに入って、幹部自衛官らが靖国神社に集団で参拝していたことが相次いで表面化しました。閣僚の参拝が政治問題であるように、靖国神社参拝はそれ自体が政治的な問題の側面があります。自衛官は公務員として政教分離を順守するのは当然ですし、文民統制(シビリアンコントロール)の下にある軍事組織の自衛隊も、その個々の構成員も、政治的な問題に関わることは厳に慎むべきです。陸軍大臣、海軍大臣に現役の軍人が就いていた戦前の旧軍とは、自衛隊はその点が決定的に異なるはずです。日本国憲法下で設置され運用されている自衛隊は、旧軍の継承組織ではありません。にもかかわらず、部内にたとえ一部でも、旧軍を思慕するようなメンタリティがあり、政教分離や文民統制を逸脱しかねないのだとしたら、軽視できません。
 最初の報道は陸上自衛隊でした。陸上幕僚副長(陸将)らが1月9日に靖国神社を集団で参拝。副長は時間休を取得しながら公用車を使用していました。防衛省は公用車の私的使用について処分しましたが、参拝そのものは私的な行為としてとがめませんでした。参拝したのは陸自の航空事故調査委員会の関係者で幕僚副長は委員長でした。
 ※共同通信「靖国参拝、公用車使用で処分 陸自幹部ら『私的』と結論」=2024年1月26日
 https://www.47news.jp/10446097.html

 陸上自衛隊幹部らが靖国神社に集団参拝した問題で、防衛省は26日、公用車の使用が不適切だったとして、参拝した小林弘樹陸上幕僚副長ら3人を訓戒とするなど計9人を処分した。陸自トップの森下泰臣陸上幕僚長も含まれ、監督責任を問われ注意となった。全員が休暇を取って参加し、玉串料は私費だったとして、部隊参拝や、参拝の強制を禁じた1974年の事務次官通達の違反はなく、私的参拝と結論付けた。
 防衛省によると、参拝は41人に案内、22人が参加し、うち13人が玉串料を支払った。小林副長らは公用車の使用に関し、能登半島地震で自衛隊が災害派遣中のため「緊急に防衛省に戻る可能性を考慮した」と説明した。

 次いで、海上自衛隊の練習艦隊の司令官らが昨年5月、制服姿で参拝していたことが先日報じられました。
 ※朝日新聞デジタル「海自が靖国神社に集団参拝 練習艦隊の隊員、幕僚長『自由意思』」
=2024年2月20日
 https://digital.asahi.com/articles/ASS2N5D4KS2NUTFK00L.html

 海上自衛隊練習艦隊の今野泰樹(やすしげ)司令官らが昨年5月、靖国神社(東京・九段)に集団で参拝していたことがわかった。酒井良海上幕僚長は20日の記者会見で、練習艦隊の165人を対象に九段下周辺の史跡などをめぐる研修を行った際、「その中の多くの人間」が参拝したと明らかにした。
 海幕によると、集団参拝が行われたのは昨年5月17日。海自の幹部候補生学校の卒業者は練習艦隊に配属され、例年、この時期に歴史学習として九段坂公園や日本武道館を回る研修がある。その際の休憩時間に、希望者が制服姿で参拝したという。

 朝日新聞は、海幕長は「問題視することもなく、調査する方針もない」とした一方で、防衛省の茂木陽報道官は20日の記者会見で「詳細な事実関係を現在、確認中だ」と述べたことも伝えています。
 自衛官であっても、思想・良心の自由や信教の自由は憲法によって保障されています。勤務時間外に、私服姿で一人静かに訪ねるのなら、個人の自由の範囲内かもしれません。しかし、はた目にも自衛官と分かる制服姿や、公務に準じる公用車の利用などは一線を超えていると感じます。
 靖国神社は、戦前は陸海軍が共同で管理する軍国主義の象徴的な施設でした。戦後は、A級戦犯14人を「昭和の殉難者」として合祀しています。付属施設の遊就館の展示でも、日中戦争を「支那事変」、太平洋戦争を「大東亜戦争」と呼んでいるように、戦争当時の歴史観、価値観が色濃く反映されています。日本が不戦を国是とする今では、政治と宗教の分離という意味でも、首相や閣僚、国会議員らがその身分を公然とかたって参拝することには疑問があることは、このブログの以前の記事で書いた通りです。

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 軍事組織、実力組織の一員である自衛官が、制服姿で公然と靖国神社を参拝することには深刻な危惧を覚えます。仮に、個々の自衛官に旧軍への思慕、さらには旧軍との連続性の意識があるのだとすれば、それで文民統制が本当に機能するでしょうか。むろん、自衛官が皆すべて同じではないでしょうし、そうした自衛官がいたとしてもごく少数かもしれません。それでも、同じような事例が複数表面化していることが気になります。自衛隊が階級組織であり、上官からの呼びかけなのか事実上の命令なのか、いずれにしても抗しづらいのではないか、とも感じます。文民統制から逸脱した上官が出たら上意下達の組織はどうなるのか、という問題を内包しているように思います。
 1931年の満州事変以後、日本は15年に及ぶ戦争遂行の時代に入っていました。32年の五・一五事件で政党人の犬養毅首相が暗殺されて以後、政党政治は衰退し「憲政の常道」は終わりました。二・二六事件はその中で、一部の若い軍人が部下の下士官、兵を私兵化して起こした独善的な反乱です。軍事組織の内部統制の崩壊という一面があります。自衛官の集団参拝との間に、見過ごせない類似点がある可能性を疑うのは考えすぎでしょうか。
 当時と今日とで、政治状況、社会状況は大きく異なってはいます。ただ、岸田文雄政権の下で、安倍晋三政権以来の流れである軍拡路線が進んでいます。そのこと自体の当否はさておき、必然的に自衛隊の肥大化を伴うはずです。シビリアンコントロールの徹底はより重要になるのに、政府、防衛省は十分に対応できるのか。疑問なしとはしません。加えて言えば、岸田政権下での最近の政治不信の高まりも気になります。
 かつて国を挙げての戦争遂行の果てに、アジア各地におびただしい犠牲を生み、日本国内も焦土と化した歴史があります。二・二六事件は軍事優先の社会体制へ進む過程で、軍事組織の一部が統制を外れて暴走した出来事です。現在の社会状況に照らしつつ、教訓を社会で継承していくことが必要です。そんなことを、事件から88年の今年、あらためて考えています。

 【現場に立ってみる】
 2月23日の天皇誕生日の休日、事件に関係する場所をいくつか回ってみました。
 東京都心の東京メトロ銀座線、南北線の溜池山王駅を降りて地表に出ると、ひときわ高いビル「山王パークタワー」があります。事件で反乱軍が拠点を置いた「山王ホテル」はこの場所にありました。

 東側は道を1本隔てて首相官邸(下の写真の右の建物)。その北に国会の議員会館棟が並びます。国会議事堂はその東(写真では奥の方向)です。足を運んでみて、反乱軍が国家の中枢を押さえようとしたことが、あらためてよく分かりました。

 事件当日の東京は雪でした。わたしが訪ねた日、東京では朝方は冷え込んだようですが、日中は雨。灰色の空が広がっていました。

 溜池山王駅から地下鉄銀座線に乗って10分で渋谷駅に着きます。駅から北へ上り坂を徒歩10分ほど。NHK放送センター近くに、事件関係者の慰霊像があります。
 反乱罪に問われた将校らは東京・代々木にあった陸軍刑務所で銃殺刑に処せられました。慰霊像があるのは、刑務所の跡地の一角です。昨年7月に訪ねた際のことはこのブログにも書きました。緑に覆われていました。この日、街路樹の葉は落ちていました。

 将校たちの刑執行は夏場でしたが、事件で殺害された人たちには、2月26日は命日です。そっと手を合わせました。白梅が咲いているのが目にとまりました。

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※追記 2024年2月28日18時
 非常勤講師を務めた大学の授業では履修生たちに、社会との関わりについて考えを深めるために、ニュースの現場に足を運んでみることを奨めました。若い世代の方の参考になればと思い、わたし自身が訪ねたことがある二・二六事件の関係地を、東京都内を中心に別記事にまとめました。 

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仮説メモ:投票率上昇なら政権交代に現実味?~「自民と立民 支持率並ぶ」の読み解きを試みる

 先週末に実施された毎日新聞の世論調査の結果が目を引きました。岸田文雄内閣の支持率は14%、不支持率は82%に達しました。政党支持率でも、自民党と立憲民主党が16%で並びました。仮に今、衆院選が実施されれば、政権交代は必至と思えるような結果です。
 ただし、同時期に実施された読売新聞の調査と朝日新聞の調査とは、かなり趣が異なります。この3件の調査の結果を一覧にまとめると、以下の通りです。

 読売新聞の調査結果と朝日新聞の調査結果は、おおむね一致しているようです。これに対して、毎日新聞の調査結果は明確に異なっています。読売、朝日の調査でも岸田内閣、自民党とも支持は低い水準ですが、自民党が野党に並ばれてしまう、という状況ではありません。この違いは何を意味するのか。推測交じりのわたし個人の仮説ですが、報じられている内容を元に考えてみました。
 各紙とも調査方法は一定程度、記事の中で開示しています。それによると、3件の調査とも対面の聞き取りではなく、電話を介した調査です。コンピューターで無作為に電話番号を作成していること、携帯電話と固定電話を組み合わせていることは3件とも共通です。読売新聞、朝日新聞の調査が電話で直接、質問をしているのに対し、毎日新聞の調査では、携帯電話の場合、調査を承諾した人にSMS(ショートメッセージ)で回答画面へのリンク情報を送付している点が、読売、朝日とは異なるようです。記事から判断できる明確な差異はほかに見当たりません。SMSを使うかどうかの違いで、調査結果にここまで開きが生じるのかどうか。なお、回答率は読売新聞調査は固定電話62%、携帯電話39%で回答数は1083、朝日新聞調査では固定電話50%、携帯電話39%で回答数は1113です。毎日新聞は目標サンプル数を1000件とし携帯453件、固定571件(計1024)の回答を得たとしていますが、回答率は記載していません。
 わたしの主観ですが、スマホに世論調査の電話がかかってきたとして、そのまま質問に答えるのならともかく、あらためてSMSでリンクを受け取り、そこから回答画面にアクセスして回答を入力するのだとしたら、ちょっと面倒だな、と感じるように思います。面倒だと感じて調査への協力を断る人も少なくないのでは、と想像します。毎日新聞の調査に回答している人は、その面倒を乗り越えて調査に協力している人たちであり、そこが他社の調査と異なる点ではないかと思います。適切な言い方かどうか分かりませんが、毎日新聞の調査には他社調査にはないこうしたバイアスがかかっている、という言い方が可能かもしれません。

 では、多少の面倒をいとわず調査に協力するのはどのような人たちでしょうか。これもわたしの主観ですが、日ごろから政治へ関心を持ち、内閣への評価や支持政党についても明確な答えを持っている人ではないかと思います。もし政治に関心がなければ、SMSを介した面倒な調査に協力しようという気にならない方が自然だろうと感じます。実際に、内閣支持率をめぐっては、毎日新聞の調査では支持と不支持の合計は96%もあります。政権への態度を明示しない人はわずか4%。読売新聞調査の15%(支持と不支持の合計85%)、朝日新聞調査の14%(同86%)との間に有為の差があります。
 岸田政権や政治に明確な意見を持つ人たちの回答が相対的に多く反映された調査で、もはや政権交代ではないか、と思わせる結果が出たことは何を意味しているか。政治への関心が高い層は今、岸田政権や自民党に批判的になっている、ということが可能性の一つではないかと思います。政治への関心が高まれば、岸田政権や自民党への批判が増し、政権交代の受け皿としての期待から野党の支持が増える、と予測することもできそうな気がします。選挙で投票率が上がることは、それだけ政治に関心を持つ人が増えたということを意味します。そういう人の票は野党に向かうのではないか。仮に今選挙が実施され、投票率が上がれば政権交代が現実味を帯びてくる―。そんなことを感じます。

 以上は、あくまでもわたしの推測交じりの仮説です。世論調査や統計に専門的な知見を持った方が、今回の毎日新聞の調査結果をどのように見ているか、知りたいと思います。

裏金巡る虚偽記載 「派閥の指示」と弁明~検察の捜査に改めて疑問

 自民党のパーティー券裏金事件で、自民党は2月15日、安倍派、二階派の議員らに対する聞き取り調査の結果を公表しました。報道によると、調査の対象は現職国会議員82人と選挙区支部長3人の計85人で、内訳は安倍派79人、二階派6人。85人中32人が、派閥から還流を受けるなどした「裏金」であることを事前に認識しており、うち11人は政治資金規正法にのっとって収支報告書に記載すべきだったことを認識していたとのことです(読売新聞によると、11人は全員安倍派所属)。聞き取り調査には党幹部のほか弁護士も立ち会いました。
 驚いたのは、議員側の弁明の内容です。収支報告書に記載しなかったことについて、派閥からの指示があった、とした議員が複数いたとのことです。このブログの以前の記事でも書きましたが、この事件には、自民党の金権体質だけではなく、検察が捜査を尽くしたのかどうか、という論点があります。安倍派の裏金は派閥ぐるみなのに、虚偽記載について派閥幹部の国会議員の刑事責任は不問とされ、派閥の会計責任者だけが訴追されました。捜査を尽くしても派閥幹部と会計責任者の共謀の証拠が見当たらなかったことが理由とされました。したがって、派閥幹部の刑事責任を巡る最大の焦点は、この共謀の有無です。
 今回の自民党の調査対象になった議員は、東京地検特捜部も聴取し、派閥の指示で収支報告書に記載しなかった、との供述も得たはずです(仮に聴取もせず、あるいは聴取はしたが派閥の指示について供述を得られなかったとしたら、「捜査を尽くした」とは到底言えません)。自民党の調査結果は、個々の弁明について議員名を明らかにしていないので、推測交じりになりますが、安倍派の議員が特捜部に「収支報告書に記載しなければならないことは分かっていたが、派閥の指示で記載しなかった」と供述していたとすれば、それは何を意味するでしょうか。派閥幹部の議員は、パーティー券の売り上げの還流は知っていたが、派閥の収支報告書に記載しないことは知らなかったことになっています。その一方で、還流を受けた議員たちに、それぞれの収支報告書にも記載しないことを派閥が指示していたことになります。
 還流する資金の出元である派閥と、受け取り側の議員側で、収支報告書の扱いをそろえることは、ありていに言えば「口裏合わせ」です。そんな重要なことを、派閥の事務方である会計責任者の一存で決められるでしょうか。派閥幹部の議員から事務方に対し、明示的にであれ暗黙のうち黙示的にであれ、意思表示と合意の形成があったからこそ、還流を受けた個々の議員に、派閥としての指示が下りていったのではないのか。合理的な疑問です。
 自民党の調査で「派閥の指示」を口にしたのは一部の議員のようですし、東京地検特捜部の聴取ではおそらく、議員たちの供述には食い違いも少なくなかったのではないかと思います。しかし、その食い違いを放置せず、実際は何があったのかを解明して初めて「捜査を尽くした」と言えるはずです。政治資金規正法が訴追対象を「会計責任者」と明記し、議員の訴追に共謀の立証が必要なことは、捜査側にとって高いハードルであるのは事実ですが、その点を「法の不備」という言い訳にして、当初から形だけの捜査で終わらせるつもりだったのではないのか、とすら感じます。あるいは検察の捜査能力の問題なのか。少なくとも、検察は捜査についてもっと説明するべきだと思います。


 議員たちの弁明について、以下の各記事が詳しく紹介しています。
※毎日新聞
「派閥指示・秘書のせい…言い訳オンパレード 『裏金』聞き取り報告書」=2月16日
https://mainichi.jp/articles/20240215/k00/00m/010/350000c
※読売新聞オンライン
「『派閥の指示から外れたことはできない』、多数の議員が違法性認識しつつ不記載継続…自民報告書」=2月16日
 https://www.yomiuri.co.jp/politics/20240216-OYT1T50009/
※産経新聞
「安倍派、幹部の責任問う意見多数 政治資金パーティー不記載、今後は処分が焦点」=2月15日
 https://www.sankei.com/article/20240215-WSKWC5TXNZK7XD3GYIJLFPXEMI/

 還流を受けた議員側の立件について、検察が3千万円で線引きしたことに対しても、あらためて疑問を感じます。自民党の調査によっても、収支報告書に記載しなければならなかったことを認識していた議員が11人もいました。派閥ぐるみのかつてない大掛かりな違法行為です。その悪質性に鑑みて、従来の“基準”にこだわらず、虚偽記載があったすべての議員側を金額の多寡にかかわらず訴追し、刑罰の可否の判断は裁判所にゆだねる、という選択肢もあるのではないかと思います。
 自民党の調査は、個々の議員の弁明を匿名とするなど、厳しさを欠いています。党としての処分についても、上記の産経新聞の記事によると、茂木敏充幹事長は、重い処分である除名や離党勧告の目安として、刑事事件での立件を挙げたとのことです。検察が3千万円の線引きを踏襲したおかげで、“裏金議員”の大多数は除名や離党勧告は免れるということになりそうです。
 一時的に批判は浴びても、刑事責任を問われることもなく、除名はおろか離党すらせずに済むのなら、議員たちは「今のままがいい」と考えるはずです。次回の選挙で当選してしまえば「禊は済んだ」ということにされ、連座制の導入など政治資金規正法の改正もうやむやになりかねないことを危惧します。
 マスメディアの報道は自民党に自浄能力があるか否かに向かっている観があります。それも必要な報道ですが、検察という公権力に対しても、引き続き監視の機能を果たしていってほしいと期待しています。

※参考過去記事

news-worker.hatenablog.com

news-worker.hatenablog.com